2007年1月30日火曜日

クラウスの独り言

 ミナサン、コンニチワ。ドイツ語学科のホームページがアップされて大変うれしいかぎりです。ボクもこれから、このブログなるものに、日々の出来事や、折につけ考えたことなど書き付けていこうと思います。

 まずは自己紹介から。
 名前はクラウス。生まれは埼玉県です。年齢はご想像にお任せします。写真などは後日ここでご覧いただけるでしょう。趣味は食べることと散歩です。一日2回は連れといっしょに15分から20分くらい出かけます。朝早いときもあれば、連れがなかなか起きないときは10時くらいになることもあります。また、夜の散歩も不定期です。というのもよく散歩にいっしょに出かける連れは、今日は会議、今日は打ち合わせ、あるいは歓迎会だ、送別会だ、ゼミのコンパだと言っては帰りが遅いので、なかなか一定の時間にすることができないのです。また、家にいるときには、押し売り(これは最近少ないですが)、宗教関係の勧誘や、新聞定期購読の勧誘などの、できるだけ断れる限り断るのがボクの役目でもあります。音楽関係はクラシックも好きですが、近所で(あまりうまいとはいえない)謡の声を聞くことがたまにあるので、能のことにも少し関心があります。
 さて、これからの内容ですが、日々のよしなしごとはともかく、ボクは名前とは裏腹にあまりドイツについては知りません。でも散歩の時の連れが、ドイツに住んでいたこともあり、いろいろな話を聞かせてくれることから、ドイツやドイツ語をめぐるよもやま話や、僕はお酒類は飲めないのですが、連れの好きなドイツワインやビールの話もできたらいいなと思っています。
 では、今日のところはこの辺で。

クラウス

2007年1月26日金曜日

ベルリン、ブランデンブルク門

 多くの方々のご協力を得て、無事ドイツ語学科のホームページが立ち上がりました。「Tradition und Innovation — 伝統と革新」をキーワードに、CGデザイナー小林一浩氏がブランデンブルク門を使って、ドイツ語学科のためにシンボルイメージを作ってくれました。


 ブランデンブルク門は、かつて都城都市だったベルリンの正門として18世紀に建造されました。第二次世界大戦の後、ドイツが東西に分断されると、1960年に東独側がブランデンブルク門の側に壁を作りました。つまり、1989年にこのベルリンの壁が崩壊するまで、門は東独側にあったのです。

 私が子供の頃、初めて親に連れられてベルリンの壁を越え、東ベルリンに入ったのが1979年の冬でした。ペルガモン美術館アレキサンダー広場の威容に圧倒されたのを覚えています。しかし、最も強烈な記憶は、午後5時頃、見物を終えて外に出たとき、冬の東ベルリンが真っ暗だったことです。ベルリンの目抜き通りのはずなのに、街燈の明かりは薄暗く、広々とした道路には車がほとんど走っていませんでした。こんなに夜が暗いとは!!!
 真っ黒な空に聳え立つ銅像の黒い影も恐ろしく、外人観光客向けに開いていたホテルの光を見て安堵したのもつかの間、出された料理のジャガイモの芯ががりがりで、食べられない・・・。
 早く西に帰りたい!と子供心に強烈に感じたのを覚えています。

 現在はEUの一員となったドイツの再統一のシンボルであるブランデンブルク門は、洗浄されて白く生まれ変り、まさしく古いドイツと新しいドイツを象徴しています。
 獨協大学の前身である独逸学協会の時代から数えると、獨協大学は、約120年近くドイツと様々な形で交流を持ってきました。獨協大学ドイツ語学科も、そんな長い伝統に縛られることなく、日々ヴァージョンアップを図っています。受験生のみなさんも、ドイツ語をツールにして、世界に向けて泳ぎ出してみませんか。

2007年1月16日火曜日

ドイツ・サッカーの愉しみ

1.BVBとわたし

 私はドイツ語学科内でも、ドイツサッカーの熱烈なファンとして知られています。とは言え、ドイツ代表チームへの愛着はそれほどでもなく、私が年甲斐もなく熱くなるのはドイツ「連邦リーグ(die Bundesliga)」の特定チームの試合の時なのです。
 そのチームは、1909年に創設された伝統あるボルシア・ドルトムント(Borussia Dortmund)です。一般にBVB09と呼ばれることが多いのですが、これは正式なチーム名、Ballspielverein Borussia Dortmund 09(球技競技団体ボルシア・ドルトムント1909年)の短縮形なのです。ドイツのファンの多くは、このチームを普通に「ベー・ファウ・ベー(・ヌル・ノイン)」と呼んでいます。ちなみに、クラブ名に使われている<ドルトムント>はドイツ西部のノルトライン=ヴェストファーレン州(Nordrhein=Westfalen)有数の都市(人口約60万人)であり、特別な説明も不要と思われます。一方、日本ではなじみの薄いもうひとつの<ボルシア>という言葉は、「プロイセン(プロイセンの勝利の女神)」という意味をあらわしています。このことを知っていた人はかなりのドイツ語・ドイツ事情通ですよ。
 私がこのチームの試合を初めてみたのが1980年(対VfB Stuttgart戦、スコアは3:3と記憶)のことですから、かれこれ27年近いファンと言えます。いまでこそ、1990年代の華々しい活躍(1994/95年、1995/96年のドイツチャンピオンシップ連覇<Deutscher Meister>、1997年のUEFAチャンピオンズリーグ優勝とトヨタカップ制覇)をふまえて、BVBはドイツでも屈指の人気チームとなってはいますが、1980年代にはあわや二部落ちの危機を味わったこともありました(1986年復活祭のFortuna Kölnとの伝説の入れ替え戦第2戦を生で観戦した経験ももっています。結構自慢です!)。

 ホームスタジアムは、満員時には8万人を収容できるジグナル=イドゥーナ・パルク(旧名称:ヴェストファーレン=シュターディオン)。昨夏のFIFAワールドカップドイツ大会で、日本がブラジルと戦ったモダンで美しいサッカー専用競技場と言えば、理解していただけると思います。(写真1)
 ファン気質は、ユニホームが同じ黄と黒ということは無関係にしても、日本のプロ野球球団の阪神タイガースのそれと酷似しているようです。(写真2)
 ライバルチームは、もちろんバイエルン・ミュンヘン(FC Bayern München: FCB=エフ・ツェー・ベー)。それからルール・ダービーの相手となる不倶戴天の敵シャルケ(Schalke04: S04=エス・オー・フィア)です。
 わが愛すべきBVBは、今シーズンは出足不調で、12月終了の前半を終わって18チーム中9位と、ファンの期待を見事に裏切ってくれています。とりあえず1月26日にはじまる後半戦での巻き返しに注目してみましょう(後期開幕選はホームでの対バイエルン戦)。
                ***
 ご覧のように格調もなにもない超極私的ブログではありますが、BVBやライバルチームの近況報告のみならず、折をみて、ドイツサッカーの歴史などを紐解きながら、みなさんにドイツサッカーの魅力を紹介していきたいと思っています。
 乞うご期待。



2007年1月4日木曜日

Audi A4 Avant 1.8T Quattro

 私の身の回りには、いくつかのドイツ製品がある。特にこだわって手に入れたものもあれば、たまたまそうなったものもある。こだわったものの中で一番身近なもの(妻に言わせればほとんど私の分身のような)が、愛車である。

 つきあい始めてかれこれ3年半になるAudi A4 Avant 1.8T Quattro。ドイツ車といえば、日本ではMercedes Benz(メルツェーデス・ベンツ)やBMW(ベー・エム・ヴェー)、VW(フォルクス・ヴァーゲン)の方がポピュラーだが、あえてAudiである。なぜか?
 私がドイツ語に触れだした頃、いや、それ以前からだろうか、世界ラリー選手権(WRC)でAudiは無敵だった。Audi Quattro(アウディ・クワットロ)。当時はまだ一般的ではなかった4輪駆動を積極的に導入し、「4輪駆動車でなければ、もはやラリーには勝てない」とまで言わしめた。Vorsprung durch Technik(技術による先進)というAudiの理念が私はたまらなく好きである。
 私の好みで一からオーダーし、4ヶ月をかけてはるばるIngolstadt(インゴルシュタット)からやってきた我が愛すべき友である。
M.K

「歓喜に寄せて」は

 年末になると,日本中で演奏されるベートーヴェンの第九交響曲。第4楽章の合唱の歌詞は,ドイツの詩人フリードリヒ・シラーによる「歓喜に寄せて」からのものです。この詩をそらんじている方,あるいは歌ったことがある方も多いのではないでしょうか?
 でも,この詩が実は不思議な詩であることに気づかれたでしょうか?

Freude, schöner Götterfunken,   歓びよ,美しき神々の火花よ,
Tochter aus Elysium;       楽園エリュウジウムの娘よ,
Wir betreten feuertrunken     私たちは炎に酔いしれて
Himmlische, dein Heiligtum.    天上なるものよ,そなたの聖所に入る
Deine Zauber binden wieder,    そなたの力はふたたび結び合わせる
Was die Mode streng geteilt;    世の習いが厳しく分け隔てたものを
Alle Menschen werden Brüder,   人はみな同胞となる
Wo dein sanfter Flügel weilt.    そなたのたおやかな翼のあるところ

 この詩は,最初に出版された段階で,108行にも及ぶ長い詩です。そして,驚くなかれ,ずっと「歓び!」「歓び!」と連呼し続けるに等しいのです。歓びをテーマにしている詩は数多くありますが(例えば愛の歓びとか…),たいていは悲しみを乗り越えて,とか,つらさを克服して,というストーリーがあります。でも,シラーの詩にはそれがないのです。
 実はこの詩は,歓びの連続が陶酔を巻き起こし,それが人々同士の一体感や個人の疎外感(他からの孤立や分裂の意識)の克服をねらった感情の実験詩なのだ,と私は思います。シラーは,近代人が自然から分断されている不幸,人々がそれぞれ孤立している悲惨を深く意識していました。この分裂状態を乗り越える手段として,若いシラーは歓びというポジティブな感情の爆発を考えたのです。
 この感情の実験は,しかし,あくまでも一時的な効力した持ち得ません。そのことにシラーは満足できなくなりました。彼はこの詩を否定的に評価するようになっていきます。同時に,分裂の克服のための処方箋として,「美的教育」を考えるようになります。でも,この詩はすぐに多くの曲(生前だけで50曲!)がつけられ,人々の集いの場での歌として親しまれていきます。人々は,かりそめであっても,酒を飲み,ともに語り,歌う場での一体感を楽しんだのです。
 今,日本人が第九にこだわるのは,この一体感を求めてのことなかもしれません。逆に見れば,人々は今,癒しがたい孤立感や分裂の意識に病んでいるのでしょうか?
T.Y

春のうた

 毎年春、5月になると授業で流したくなる曲があります。《ローレライ》で有名なハイネが書いた詩に、R. シューマンが曲をつけた〈美しき五月に〉です。

Im wunderschönen Monat Mai,   美しい五月に
Als alle Knospen sprangen,   蕾がみな花開いたとき
Da ist in meinem Herzen   私の心に
Die Liebe aufgegangen.   愛が芽生えた。

Im wunderschönen Monat Mai,   美しい五月に
Als alle Vögel sangen,   鳥がみな歌ったとき
Da hab ich ihr gestanden   私は彼女に打ちあけた、
Mein Sehnen und Verlangen.   私の憧れと望みを。

シューマンの歌曲集《詩人の恋》(作品48)のはじめに置かれたこの曲は、ピアノと歌が調和し、憧れに満ちたロマンティシズムをたたえたとても素敵な作品。5月とはいっても雨の降る日の授業ではかけたくないなぁなどと思っているうちに、時期を逸してしまう年もありますが、私の授業を履修しているみなさんは、きっと一度は耳にしたことがあるのではないかと思います。
 ドイツの春は突然にやってくるとよく言われます。イースター(Ostern)を過ぎ、5月になると一気に花が開き、若葉が茂ります。白アスパラガス(Spargel)も春の味覚!緯度の高いドイツでは、冬が暗くて長いだけに、春の喜びもひとしおなのでしょう。ドイツ語圏の音楽史をふりかえれば、中世以来、春を歌ううたはたくさん書かれてきました。たとえば、中世のミンネゼンガー、ナイトハルト・フォン・ロイエンタール(1180頃~1245頃)の “Meyenzeit one Neidt” や、モーツァルト(1756~1791)作曲の《春への憧れ》、ワルツ王と呼ばれるヨハン・シュトラウスII世(1825~1899)の《春の声》など。でも、留学中の私は、5月に一気に訪れる春よりも、少しずつ日差しに明るさとあたたかさの感じられ始めた頃、早春の野に咲くクロッカスやスイセンなどのかわいらしい花を見つけては、思わず微笑んで愛しく思っていました。ムスカリという小さな紫色の花が春を告げる花だと知ったのも、ドイツ留学中のことです。日本では冬といっても晴れる日も多く、明るいので(留学中、お正月に帰国したときに空の明るさにびっくりしました)、これほど春が待ち遠しく、春の訪れが嬉しい気持ちは、ドイツの冬を体験してみないと実感できないかもしれません。
 花の咲き乱れるドイツの春も素敵ですが、私がもっと好きなのはドイツの秋。それについてはまた別の機会に書きたいと思います。
S.K