「歓喜に寄せて」は
年末になると,日本中で演奏されるベートーヴェンの第九交響曲。第4楽章の合唱の歌詞は,ドイツの詩人フリードリヒ・シラーによる「歓喜に寄せて」からのものです。この詩をそらんじている方,あるいは歌ったことがある方も多いのではないでしょうか?
でも,この詩が実は不思議な詩であることに気づかれたでしょうか?
Freude, schöner Götterfunken, 歓びよ,美しき神々の火花よ,
Tochter aus Elysium; 楽園エリュウジウムの娘よ,
Wir betreten feuertrunken 私たちは炎に酔いしれて
Himmlische, dein Heiligtum. 天上なるものよ,そなたの聖所に入る
Deine Zauber binden wieder, そなたの力はふたたび結び合わせる
Was die Mode streng geteilt; 世の習いが厳しく分け隔てたものを
Alle Menschen werden Brüder, 人はみな同胞となる
Wo dein sanfter Flügel weilt. そなたのたおやかな翼のあるところ
この詩は,最初に出版された段階で,108行にも及ぶ長い詩です。そして,驚くなかれ,ずっと「歓び!」「歓び!」と連呼し続けるに等しいのです。歓びをテーマにしている詩は数多くありますが(例えば愛の歓びとか…),たいていは悲しみを乗り越えて,とか,つらさを克服して,というストーリーがあります。でも,シラーの詩にはそれがないのです。
実はこの詩は,歓びの連続が陶酔を巻き起こし,それが人々同士の一体感や個人の疎外感(他からの孤立や分裂の意識)の克服をねらった感情の実験詩なのだ,と私は思います。シラーは,近代人が自然から分断されている不幸,人々がそれぞれ孤立している悲惨を深く意識していました。この分裂状態を乗り越える手段として,若いシラーは歓びというポジティブな感情の爆発を考えたのです。
この感情の実験は,しかし,あくまでも一時的な効力した持ち得ません。そのことにシラーは満足できなくなりました。彼はこの詩を否定的に評価するようになっていきます。同時に,分裂の克服のための処方箋として,「美的教育」を考えるようになります。でも,この詩はすぐに多くの曲(生前だけで50曲!)がつけられ,人々の集いの場での歌として親しまれていきます。人々は,かりそめであっても,酒を飲み,ともに語り,歌う場での一体感を楽しんだのです。
今,日本人が第九にこだわるのは,この一体感を求めてのことなかもしれません。逆に見れば,人々は今,癒しがたい孤立感や分裂の意識に病んでいるのでしょうか?
T.Y
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